岩佐ビルのある一帯の時間をさらにさかのぼってみましょう。
札幌は、豊平川が1万年単位で作った扇状地の上に構想された人工都市です。いまから200年以上前の18世紀まで、豊平川はいまの伏籠(ふしこ)川の川筋を本流としていました。現在とは比較にならない暴れ川です。そして19世紀初頭に大氾濫を起こして東に流れを振り、中流域はほぼいまの川筋になりました。西側に取り残されたかつての河道をアイヌの人々はフシコ・サッポロ(古い札幌川)などと呼び、明治になって伏籠(ふしこ)川の字が当てられました。明治初期、本流から切り離された伏籠川の源流は、いまの北1~北2条西3丁目付近のメム(泉地)でした。これは豊平川扇状地の先端の位置。扇状地では、上流は厚く礫も大きく、下流にいくにつれて薄くなり、礫も小さくなります。ですから地表を流れるほかに大地にたっぷりと吸われていく水は、礫が細かく水を通しにくくなる下流で湧き出すことになります。それがメムです。豊平川の伏流水は、水質や味わいも第一級のものでした。
さて創成川から苗穂にかけての一帯は、創成川の水運とこの伏流水を生かして、開拓使の時代から工業地帯として発展しました。そうした針路を建言したのが、開拓使顧問ホーレス・ケプロンでした。麦酒工場(現・サッポロビール)や味噌醸造所(現・福山醸造)、酒蔵(現・日本清酒)、乳製品工場(現・雪印乳業資料館)などは、恵まれた伏流水があったからこそ設置された工場群です。地名である「苗穂」のいわれは、アイヌ語の「ナイ・ポ」(小さな川)。古くから一帯に多くの小川や泉があったことをしのばせます。
そしてもちろん、創業者岩佐‥がラムネの製造を思い立ったのも、この上質な水があればこそ。現在でも岩佐ビルは、敷地内にあるポンプで水をくみ上げ、上水にしています。それはかつて、開拓使麦酒(ビール)を作った水にほかなりません(サッポロファクトリーでは、いまも敷地内から汲み上げた水で「札幌開拓使麦酒」が作られています)。