岩佐ビルが位置する札幌の北3条通りは、明治初期には「札幌通り」と名づけられ、「開拓使通り」とも呼ばれていました。 明治政府が北海道開拓の拠点とした札幌の建設は、1869(明治2)年旧暦11月、旧佐賀藩士の開拓判官島義勇(しまよしたけ)が札幌の地に入り、大きな町割り(都市計画)を行ったところから始まります。そのあとを継いだのが、土佐藩出身の岩村通俊です。 岩村は市区を測量して街区と道路を開き、本陣や官宅などを建てました。また、まちを南北に二分するラインに広い火防線を設けました。いまの大通公園です。岩村は、碁盤の目状に作った通りに名前を振りましたが、それは不思議なことによその地名を当てたものでした。後志通(現・大通)、日高通(南一条通)、沙流通(南二条通)、浜益通(北一条通)、厚田通(北二条通)、という具合です。 「札幌沿革史」(1897年)によれば、岩村はこうすることで民が全国の地名を知ることになれば良いと考えたといいいます。もし日本で足りないほど札幌が発展すれば、欧米やアジアの首都の名をつければよいのだ、とも。 しかしそんな中でただひとつ「札幌」を冠したのが、開拓使札幌本庁舎(北3条西5丁目)を基点とする、「札幌通り」です。 明治初期の沿道には、札幌農学校や宮内庁帝室林野管理局、札幌病院(のちの市立病院)、開拓使の紡績場や麦酒・葡萄酒醸造所、永山武四郎邸(屯田兵の父)などが建てられました。大工場であった麦酒・葡萄酒醸造所の一画は、いまサッポロファクトリーのレンガ館や煙突広場として残されています。 こうして北3条通りは、道都の都市軸となるべく札幌の名のもとに生まれた、特別なストリートでした。開拓使時代の終わりには街区名も今日のような数字表記に替わり、やがて北海道庁の時代になってかつての本庁舎敷地の一角に赤れんが庁舎が建てられます。現在でも、北3条通りを西に向かうと道庁赤れんが庁舎がビスタ(見通し)の焦点となります。そんな都市景観を意識するたびに、北3条通りが担っていた重要な意味がうかがわれことでしょう。